なぜ水辺とおじいさんなの?②(自分を使い尽くす)
水辺を舞台におじいさんばかり撮っていることについて、昨日は“水辺のわけ”を書きました。
それは水辺が生命活動の場であるということでした。
では、おじいさんについてはどうなのか。
おじいさんとは、つまり老人ですので、彼らは生命活動の終盤に向き合っています。
水辺が象徴する生に対して、死を予感させる存在です。
水辺を舞台におじいさんを撮ることは、生と死を同時に捉えていくことになるのです。
昨日も書きましたが、違う要素を対比しながら描くことが私の映画作りなので、そのことが端的に見えることから、水辺とおじいさん になるのだと思います。
しかし、ここでもう一つの疑問が湧いてきます。
老人を描くなら、おばあさんでもいいのでは?
その通り、おばあさんでもいいのです。
しかし私の場合、おばあさんとの幸運な出会いが無かったのです。
岩手県盛岡市の池を舞台に撮った「無名碑 MONUMENT」(2016年)では、お花見で池に集まってきた多くの老若男女に無作為にインタビューを敢行しました。
その中にはもちろんおばあさんもいました。
おばあさんに話しかけると、初めはオープンにいろいろと喋っていただけるのですが、それを撮ろうとカメラを向けるや、皆さん逃げるように去っていきました。
「撮られるのはいや!」
その気持ちは分かります。
突然、見ず知らずの男が自分にカメラを向けてきたら、たいがいの人は抵抗があると思います。
特に女性は警戒するでしょう。
また、仮に撮られるならもっといいコンディションで撮ってほしいという気持ちもあるでしょう。
とにかく、いま突然撮ることは難しかったのです。
(私の場合「いま撮らせて下さい」という手法で製作しているので難しいのです)
反対にカメラに対して一番抵抗が少なかったのが、おじいさんでした。
おじいさんたちは、あまりカメラを気にしませんでした。
撮るなら勝手に撮ればいい、という感じの人が多かったのです。
おじいさんたちにカメラを向けると、ある人は朗々と、またある人は訥々と、大概の人が長い時間をかけてお話をしてくれました。
これはどうしてなのか?
もしかしたら、おじいさんは話したがっているのかもしれない。
そんな気がしました。
多くのおじいさんが、自分の中に話したいことを持っている。でも、普段はなかなかそれを話す機会が無い。
あらたまって話すことではないと思っているのかもしれないし、聞いてくれる人が周りにいないのかもしれない。
また、特に今のおじいさんの世代は、男のおしゃべりは美徳ではないと教えられてきたのかもしれません。
理由は様々にあるのでしょうが、とにかくおじいさんは話してくれるというのが、私の長年に渡る撮影の中の印象です。
言い方は悪いのですが、私はそこにつけこんで撮影をしているのです。
こうして私が撮影してきたおじいさんたちには、ある共通点があります。
それは、“自分を使い尽くしている”ということです。
映画に撮らせていただいたおじいさんたちは、それぞれ境遇や取り組んでいることは違っていても、皆さん真剣に何かに没頭しています。
そしてそれに対して終点を決めていません。
「東京干潟」のおじいさんは、猫と自分の暮らしのために毎日川に入りシジミを獲っています。
「蟹の惑星」の吉田さんは、定年退職後に突如としてカニの研究に目覚め、15年間に渡って多摩川に通い続け独自の調査と記録を行っています。
それぞれ、生活の為、趣味の為と目的や動機、また老年の境遇も違いますが、私はこのお二人に共通するものをずっと感じていました。
お二人とも、老後や余生という意識を持たず、今取り組むべきことに一心に向かっているのです。
生きて居る限り、自分というものを使い尽くそうとしているのです。
体も心も頭脳も気力も、自分の中にあるすべてを使い切ろうとしているのです。
(これは野生の中で見たカニをはじめとする生き物にも共通することでした。彼らも生ある限り、その炎を燃やし続けているのです)
この姿に私は励まされてきました。
撮影中、先が見えず心が折れそうになった時も、50歳を越え体のあちこちにガタが来て元気の無くなった時も、お二人の姿を見ると、いやいやまだ俺は自分を全然使い切っていないじゃないか、もっともっと出来ることがあるはずだ、とその度に鼓舞されました。
無論、これはお二人が健康で元気だからこそ出来ることです。
しかし、逆に言えばこうして日々取り組むべきことを続けているからこそ元気なのだとも云えるのではないでしょうか。
さらに、これはテレビで見たことですが、川のそばにいる人は寿命が長い傾向があるらしいです。
それは川のせせらぎの音が関係しているとのことです。
だから尚更、お二人ともお元気なのでしょう。
自分を使い尽くすお二人の姿を、ぜひスクリーンでご覧ください。
村上浩康(製作・監督)