なぜ水辺とおじいさんなの?①(人間以外の世界を見る)
私のこれまでのドキュメンタリ―映画は、なぜか水辺を舞台に、おじいさんを主役にした作品ばかりです。
「流ながれ」(2012年)では、カワラノギクという絶滅しかかっている植物をたった一人で河原に復活させようとしている吉江啓蔵さんと、地元の川で環境調査のために水生昆虫を40年前から調べている齋藤知一さんの活動を追いました。
「無名碑 MONUMENT」(2016年)は、盛岡の花見の名所である池に集まる様々な人の証言を綴った作品ですが、この中で強烈な印象を残すのは、池の畔に立つ隕石博物館の老学者と、毎日夜明けと共に池にやってきては自作の歌を唄いながら体操をする元シベリア抑留者の91歳のおじいさんです。
今回の「東京干潟」は、干潟でシジミを獲りながら捨て猫たちと暮らすホームレスのおじいさんが主役です。
また「蟹の惑星」も、干潟で15年に渡ってカニの研究を続けるおじいさんの視点から生き物や環境を見つめていく作品です。
みんな水辺とおじいさんが題材になっています。
なにも意識してこうなったわけではありません。
気がついたら、過去の作品が共通のモチーフになっていたのです。
自分でもどうして?と不思議です。
その理由はなんなのか…。
まず映画の舞台となる水辺についてですが、私は特に水回りが好きというわけではありません。
川や海のそばで育ったわけでもなく、子供の頃から水辺で遊んだこともほとんどなく、釣りさえしたことはありません。
なのになぜ映画を撮ろうとすると水辺を選ぶのか。
自分なりに考えると、それは水辺が生命活動が盛んな場所だからだと思います。
そもそも生命は水から誕生しました。
水辺には多くの生き物が生息し、また集まってきます。
さらに人間の文明も水辺から発展しました。
水辺は人間社会の基盤であり、自然との境界でもあります。
そのような場所を舞台にすると、人間を含めたあらゆる生命の営みが見えやすくなってくるのです。
私は映画を作る時、人間だけを描くことはしません。
言うまでもなく映画は人間が人間を描き、人間に見せるために作られるものです。
しかし映画が内包するもの(つまり映画に映っているもの)は、人間だけではなく、その背景にある環境や空間、時間、物質など様々なものを同時に捉えています。
私は映画を描く時に、それら人間以外の要素も取り入れることにしています。
なぜなら、人間の世界だけを見ていたのでは行き詰ってしまい、様々な問題を捉えるには限界があると思うからです。
人間社会の問題を人間だけの視点から捉えようとすると、狭い視野になりがちです。
人間はこの世界のほんの一部を担っているに過ぎないのですから。
だから私は人間以外の世界も同時に捉え、そこと対比させて映画を作ろうと思っています。
その時に、一番分かりやすく、かつ映画向きなのが生き物です。
生き物のビジュアル、動き、生態などは極めて“エイガ映え”するのです。
そしてそれをカメラに収めるには、生き物が集まる水辺が最適となってくるー。
そういうわけで水辺が舞台になったのではないかと思います。
まあ、これは今振り返ってのことで、多分に後付けの感もありますが。
さて、舞台が水辺ということはこれでひとまず理由付けができましたが、もうひとつの要素である“おじいさん”についてはどのようなわけがあるのでしょうか。
これについては、また明日考えてみます。
村上浩康(製作・監督)