存在そのものが“批評”であること
久しぶりのブログ更新で、恐縮です。
おかげさまで「東京干潟」「蟹の惑星」無事公開を迎え、連日多くの皆様にご覧いただいております。
観て下さったお客様から、たくさんの称賛と激励のお言葉を頂戴し、何よりの励みとなっております。
あらためてこの映画が多くの皆様に支えていただいていることを実感しております。
観客の皆様、応援して下さる方々、広めて下さる皆様に心より御礼申し上げます。
ありがとうございます。
さて映画を公開し、私自身があらためて感じていることを書いてみます。
それは「東京干潟」の主人公のおじいさんのことです。
このおじいさんは、多摩川河口の岸辺に小屋を建て暮らしています。
目の前の干潟で獲ったシジミを売り、生計をたてつつ、都会の人々が捨てた猫たち(多い時は20匹にもなります)の世話をしながら暮らしています。
道具を使わないのは、まだ小さい子供の貝を獲らないように選別しているからです。
繁殖前の稚貝を獲ってしまうと、次の世代が生まれず、シジミの数が減っていくからです。
自分がシジミに生かされている以上、シジミとの共生を心掛けなければならないと心に誓っているのです。
干潟の粘り気の強い泥は、そう簡単に掘り起こせるものではありません。
せいぜい10分くらいで、ひじが痛み出し、腕が腱鞘炎のようになってしまいました。
この腕の痛みはしばらく続き、1ヵ月くらいモノを掴むのも辛い状態でした。
さらに素手で多摩川の川底を掘るのは、実はとても危険なのです。
その中には空き瓶やガラス製品もあり、その破片が泥の中に混じっています。
長年シジミ漁を続けているベテランのおじいさんでも、いまだにしょっちゅうガラス片で手を切るそうです。
またガラス以外にも危険なのがカキなどの貝殻です。
カキの貝殻は意外に多く干潟に紛れており、殻のフチはカミソリの刃のように鋭利です。
このように泥にまみれ、重労働と危険に耐えながらおじいさんはシジミを獲っています。
そしてそのシジミは漁師や潮干狩りの人々の無計画な乱獲により減り続け、さらに追い打ちをかけるように橋の建設工事が始まり干潟が削られ、今はほとんど獲れなくなってしまいました。
こうしてその日その日をしのぐために獲ったわずかなシジミは、仲買業者によって安く買いたたかれ、その反対に仲買業者は品質の良いおじいさんのシジミを豊洲市場で高値で売りつけます。
このシジミの行き着く先は高級料亭らしく、ならばきっとそこで政治家の口にも入っているに違いありません。
彼らは今自分が舌鼓をうっている美味しい特大シジミが、まさか多摩川でホームレスがわずかな賃金を得るために重労働の末に獲っているとは夢にも思わないでしょう。
このシジミの流れを見ただけでも、何か経済や社会の不可解な構図が見えてきます。
それだけでも十分に驚くのですが、このおじいさんの歩んできた人生がまた非常に象徴的なのです。
九州の炭鉱町の母子家庭で育ち、まだ見ぬ父を求め返還前の沖縄に渡り、そこで米軍基地にMPとして勤務。
沖縄の基地と街の警備にあたり、本土に帰還後は建設関係の会社を立ち上げ、バブル期に東京を代表するような建造物(都庁やレインボーブリッジ、ゆりかもめ、ガーデンプレイスなど)の建設に携わってきたのが、このおじいさんなのです。
おじいさんの人生はまるで昭和から平成の現代史を象徴しているかのようです。
いわば東京の街を作ってきたおじいさんが、紆余曲折の末、何故か多摩川河口の干潟という文字通り“都市の最下流”でシジミを獲りながら捨て猫たちと暮らしている。
その干潟の周りには、おじいさんが建ててきたような橋やマンションやビルが立ち並んでいるのです。
なんという皮肉でしょう。
まるでよく出来たお話のような寓意すら感じます。
このおじいさんの存在自体がひとつの“批評”であると私は感じます。
しかし、当の本人はそのことについて全く無意識です。
自分がこのような象徴的な存在であることを知りません。
むしろ「何故俺のドキュメンタリ―など撮るんだ?」と、映像で記録されることに戸惑いすら見せていました。
しかし、この事実を私は知ってしまったのです。
これを映画にしなくては、と強く思いました。
多摩川の干潟に埋もれてしまったおじいさんの存在を、映画として形にして残したい。
そしてそれをおじいさんを知らない人たちに観てもらいたい。
それが私が映画を作る意味であり、私の考えるドキュメンタリーの仕事なのだ。
おそらく市井のなかには、このおじいさんのように人生や存在そのものが私たちに大きな示唆を与えてくれる人たちが数多く暮らしているに違いありません。
いや、すべての人々にそれぞれのドラマや物語がきっとあるのだと思います。
日常に隠された平凡さの中から、原石を探すように物語を掘り起こし、そしてそこから寓意や示唆に富む視点を見つけていくことが、私にとっての映画作りなのだと、改めて感じています。
映画とは、表現とは、作者がこの世の中をどう見つめているのか、その視点を提示していくことだと思っています。
村上浩康