猫とシジミと一緒に生きる(その1)
「蟹の惑星」では、干潟に住む様々なカニたちの営みを通して、都市の中の自然環境を見つめました。
一方、「東京干潟」では人間と自然の共生を干潟に暮らすホームレスのおじいさんの生き様を通して見つめます。
おじいさんは干潟のほとりに小屋を建て、河原に捨てられた猫たちと共に暮らしています。
私は干潟の撮影で多摩川の河口周辺(東京側も神奈川側も)を隈なく歩きましたが、野良猫が多いことに驚かされました。
ペットブームの陰で、人間の勝手な都合で飼われては捨てられる猫たちがこんなにも多いとは…。
彼らの中には、げっそりと痩せていたり、脚を引きずっていたり、片目が潰れていたり、毛がボロボロ抜けていたり、怪我や病気にかかっているものも少なくありませんでした。
そして水際や藪の中で死んでいるのも何体か目撃しました。
後におじいさんから聞いたところによると、こうしたなかには人間によって虐待された猫も少なくないとのことでした。
子どもたちが遊び半分で棒きれで叩いたり、石やモノを投げつけたり、ライターで火を付けたり、果ては犬の散歩にきた人が飼い犬をけしかけ猫を襲わせたりすることもあるそうです。
こうした動物への虐待の話を聞くと、特に愛猫家ではない私でさえ憤りをおぼえますが、しかし一方で弱い動物にあたるしかないほど追い詰められ、荒んでしまった人の心の内を慮ると何ともいえない気持ちになってきます。
おじいさんはこうした虐待から猫たちを守るために、また保健所に猫たちが連れていかれないように(2019年4月に東京都が動物殺処分ゼロを発表しましたが、撮影当時はまだ野良猫や野良犬の殺処分が行われていました)自分の出来る範囲で捨て猫たちの世話しています。
多い時では20匹くらいの面倒を見ていたようです。(後に里親に出したりして、映画の撮影時には15匹くらいになっていました)
こうした猫たちの世話にはもちろんお金がかかります。
時々、知り合いの動物愛護ボランティアの人たちがエサを差し入れてくれるそうですが、それでもエサ代だけで月に5~7万円はかかるそうです。
河原暮らしのおじいさんが、自分の生活費の他に、このエサ代を捻出するのはとても大変なことです。
おじいさんは多摩川の干潟でシジミを獲って、それを売りお金を稼いでいます。
しかし最近、このシジミが激減してしまいました。
おじいさんはとても困っています。
そのことについては、また明日書くことにします。
村上浩康(製作・監督)
この干潟の片隅に
多摩川の河口には何か所か干潟がありますが、私が主に舞台としたのは東京の大田区と神奈川の川崎を結ぶ大師橋の下の干潟です。
ここは広さが400m×200mという、だいたい東京ドーム2個分くらいの面積で、多摩川の開けた風景の中で見るとそれほど広い場所とはいえません。
しかしそれでもここには10種類近くのカニが生息しており、このような狭い範囲でこれだけのカニを一度に観察できるのはとても珍しいことです。
しかも多くの人々が住む大都会の中で。
昨日のブログでふれたように、カニたちはこの狭い干潟の中で種類ごとにきちんと場所を住み分けて暮らしています。
それはまるで線を引いたようにきっちりしています。
彼らの住み分けの基準になるのが、干潟の土壌や植生と、それぞれのカニが食べるエサです。
干潟の土壌の性質は簡単に言うと砂地と泥地の二つに大別できます。
泥地に住むのが、私が最初に撮影を始めたヤマトオサガニという甲羅幅が4㎝くらいのカニです。
彼らは泥をすくって口に運び、口の中で泥を漉して中に含まれる珪藻(藻類の一種:珪藻の化石は珪藻土で、七輪の原料やバスマットなどに使われます)などの有機物を食べています。
大師橋下の干潟はほとんどが泥地なので、ここで一番目立ち、生息数も多いのがヤマトオサガニです。
彼らは泥の中に巣穴を掘っており、満潮時にはそこに入っていますが、潮が引いて干潟が姿を現すと、巣穴から一斉に出てきてエサを食べ始めます。
干潟は瞬く間にカニだらけになります。
ヤマトオサガニの住む泥地の干潟は、水が引いた後の川の中ほどから岸辺近くまでを占めますが、その中に一部砂地の部分があります。
大師橋の上から見るとよくわかるのですが、泥地と砂地は国境を引いたようにくっきりと分かれています。
この砂地に住むのがコメツキガニです。
彼らも、自分たちが住む土壌からエサを採っています。つまり砂を食べています。
彼らが特徴的なのは、食べた砂を漉した後、口元でゴロゴロ丸めていく点です。
丸められた砂は団子状になり、それをハサミで切り取り、足元にポイと転がします。
そしてまた、砂を口に運んでは、団子を作り、足元に転がしていきます。
こうして彼らが作る砂団子は、瞬く間に数を増やし、砂地の干潟はあっという間に砂団子だらけになります。
もしこれを知らずに干潟に来て、この光景を眺めたら、誰もがビックリすると思います。
(映画では彼らの砂団子づくりを詳しく見せていますので、ぜひお楽しみに)
砂地は干潟の中だけでなく、岸辺近くにもあり、もちろんそこにもコメツキガニが住んでいます。
また砂地でも岸辺近くの葦原(水辺に群生しているイネ科の植物:茅葺屋根やすだれなどに使用されます)の近くには、チゴガニという小指のツメくらいの小さなカニが住んでいます。
彼らもコメツキガニ同様、砂団子を作りますが、住んでいる土壌の性質上、少し水分を含んだ軟状の団子になります。
その他、葦原には、その名の通りのアシハラガニや、またクロベンケイガニが住んでおり、彼らは植物を始め、他のカニや貝、魚の死骸などを食べています。
そして岸辺の茂みの中にはアカテガニもいます。
アカテガニはその名の通り、ハサミが赤く、これが水に濡れて光を浴びると、鮮やかに輝きます。
また、目はオパールのように幻想的な色を含み、さらに甲羅の上部も鮮やかな黄色に染まっており、その容姿は干潟ナンバーワンの美しさです。
(もちろん映画ではその細部を捉えいるので、ぜひスクリーンでその美をご堪能ください)
このように、大師橋下の干潟にはたくさんのカニが住んでいます。
繰り返しますが大都会の中で、一度にこれだけのカニが見られる場所は、他にないと思ます。
なのに、それがほとんど認知されていません。
こうして干潟について、まるで自然豊かであるように書いてきましたが、実際に干潟に行ってみると、一番目立つのはゴミです。
干潟の岸辺は大量のゴミだらけです。
いま世界中で海洋に漂うプラスチックゴミが大きな問題となっていますが、海と陸の境目である干潟にも、ペットボトルをはじめとするゴミが大量に捨てられています。
これらの一部は干潟に来た人々が捨てたものですが、大部分は上流の街から流れ着いてきたのです。
都会で捨てれたゴミが流れ着くのは、都会の最下流である干潟なのです。
ゴミについては信じられないものをたくさん目撃しています。
一番驚いたのは、川の上流からプカプカとベッドが流れてきた時です。
干潟で小さなカニたちの驚くべき世界を見つめ、都会の真ん中にこのような自然があることに感動して撮影しているのに、ふとカメラから顔をあげると周りはゴミだらけ。
何だか悲しくなってしまいます。
カニたちは狭い干潟で、お互いが衝突しないように住む場所を分けて暮らしています。
少ない干潟の資源(エサ)を上手に分け合って生きています。
また、彼らが泥や砂の中の有機物を食べてくれることで、海に流れる水が汚れるのを防いでいます。
これはカニだけではなく、干潟に住むゴカイや貝も同じで、さらに葦原も水質の浄化に役立っているのです。
こうして見ると、あらゆる生き物が環境に寄与しながら生きていることが分かります。
その中で何故か人間だけが環境を壊しながら生活している。
自然界から見たら、人間ってどういう存在なのだろう。
私も人間の一員で、文明によって生かされ、映画もまた文明の産物なので、偉そうなことは言えませんが、干潟での撮影を通してこうしたことをいろいろと考えさせられました。
今回は「蟹の惑星」に出てくるカニを中心に干潟の環境について書きましたが、もう一本の「東京干潟」では、また別の視点から変わりゆく東京の中の環境を描きました。
そのことについては、また明日書くことにします。
村上浩康(製作・監督)
撮影現場は二刀流
干潟で奇跡の出会いを果たし、ここから本格的に映画の撮影が始まるわけですが、それはシジミ獲りのおじいさんと、カニの吉田さんと、いわば“二刀流”で行っていくことになりました。
これは自分としても経験したことのない特殊な撮影の進め方でした。
まず撮影はシジミ獲りのおじいさんの漁から始まります。
シジミ獲りのおじいさんの漁は干潮時刻の1~2時間前から行われます。水が少しずつ引いて行き、しゃがめるくらいの水深になるのを待って川に入るのです。
これは、水が完全に引くと泥の水分が少なくなり掘りにくくなるからです。おじいさんは道具を使わず素手でシジミを掘っているので、このタイミングがいいのです。
素手で獲るのは、成長途中の小さな貝をはじいて、大きなものだけを獲るためです。稚貝を残し、長く漁が続けられるように共存を心がけているのです。(このおじいさんの漁への姿勢については、多摩川のシジミ乱獲問題と共に後日詳しく記します)
おじいさんの漁は干潮から満潮までの間、だいたい4、5時間くらい続きます。ですが私は漁の様子をひとしきり撮ったところで一旦離れます。
あまり長く撮影していると、おじいさんの邪魔になるからです。
その頃には潮がすっかり引いて干潟が現れます。そうなると今度はカニの撮影に入ります。
潮が引くと干潟に空いた無数の巣穴からカニたちが一斉に出てきます。
また川辺の林や葦原からも餌を求めて違う種類のカニたちが出てきます。
多摩川河口の干潟には約10種類のカニが生息しており、どれも非常に個性的なフォルムをしていて、よく見ると色彩も美しい。
私は彼らの細部を撮りたいと思いました。なのでカメラのレンズにプロクサーという虫眼鏡のようなフィルターを付けて、出来るだけ近寄って撮影しました。
カニの撮影についてですが、これが思いのほか大変でした。カニは非常に警戒心の強い生き物で、数メートル先に動くものがあると、たちまち巣穴に逃げ込みそのまま数分間は出てきません。
普通に近寄っても撮影出来ないのです。
そこでカニが逃げ込んだ巣穴の前にカメラを出来るだけ低く構えて、折り畳みイスに座ってジッと出てくるのを待ち構えます。
数分するとカニが巣穴から眼だけ出して辺りを伺います。ここで少しでも動くとカニに気づかれるので、息をひそめて我慢します。
やがてゆっくりゆっくりカニが姿を現します。
そこでカメラを回すわけですが、急にスイッチに触れてもまた逃げてしまうので、慎重にカニに悟られないようにシュートします。
しかしカニは必ずしもカメラのレンズ前に来てはくれない。勝手に好きな方向へ動いていきます。こちらはそれをフォローしますが、動きを察せられると、またカニは隠れてしまいます。
なので、ゆっくりゆっくり、まるで大道芸人のパントマイムのように、動いているのか動いていないのかわからないようにカメラを振っていきます。
こうして撮影しているうちに、体は非常に無理な姿勢になります。イスから尻を浮かせ、体をねじったりして、長い時は30分とか40分、カニを追い続けます。
だから腰に負担がかかって、映画の撮影に入ってすぐに酷い腰痛を引き起こしました。おかげで今でも時々歩くもの辛いくらいの腰痛持ちになってしまいました。
カニの撮影はとにかく根気と忍耐、これに尽きます。
しかし、その甲斐あって肉眼では決して捉えられないカニたちの躍動する姿と生命の輝きを撮影できたと思います。
こうしてカニを撮っていると、いつの間にか吉田さんが自転車で干潟へやってきます。
吉田さんが来ると、一旦カニの撮影をやめて、一緒に干潟を隈なく歩き観察の様子を撮らせてもらいます。
吉田さんのお話はフィールドワークをしながら、その場その場で撮るのを原則にしました。カニと吉田さんを一緒に撮ることに意義があると思ったからです。
吉田さんの視点はとても独創的で、ご自身の研究に対してハッキリとしたポリシーをお持ちでした。
吉田さんは無論カニに関する本や文献もお読みになって知識は豊富ですが、しかしそれを鵜呑みにはしません。
まず自分の目でつぶさにカニを見つめ、そこからある疑問が生じると、実際に確かめようとします。そしてその検証方法を独自に考えて実行します。
その方法が実にオリジナリティに溢れ、ユニークで面白い。好奇心あふれる視点と自由な発想で、自然との向き合い方の原点を見るようです。
映画の中でもいくつか紹介しているので、ぜひ吉田さんの視点に注目していただきたいです。
その後、干潟が満潮に近づく頃、カニたちは巣穴に隠れ、吉田さんも帰っていきます。そこから干潟が完全に隠れるまで、再びシジミ獲りのおじいさんの漁を撮ります。
漁が終わると、おじいさんは小屋に戻り、今度は獲ったシジミをふるいにかけ、網の目から落ちた小さなものを川へ戻します。念には念を入れて、稚貝を獲らないように用心しているのです。
こうして獲ったシジミをネット網にまとめ、自転車に積んで売りに出かけます。(近くに買い取ってくれる仲買い業者があります)
ここで得たわずかなお金で、まずは猫たちのエサを買い、それから自分の食べ物、また川に入って冷え切った体を暖めるためにお酒も買います。
おじいさんは若い頃はお酒もたばこもやりませんでしたが、干潟でシジミを獲りながら暮らすようになり、お酒を飲まないとかえって体に悪いと、たしなむようになりました。飲むものは決まっており、近くのコンビニで安く売っている缶酎ハイです。
おじいさんは買い物から帰ってくると、まず猫たちにエサを与え、その後ゆっくりと缶酎ハイを口にします。
その時、一緒に今日の漁の話や世間話をしながら、少しずつインタビューを撮影していきました
インタビューについてはじっくり時間をかけて、人間関係を築きながら、少しずつ進めていきました。
最初のうちはあくまでも多摩川のシジミの生態や乱獲問題などについて、またペット遺棄の実情についてお話を伺っていきました。
そのうちにだんだん打ち解けてくると、たまにおじいさんの人生について、断片的に話される時がある。その話がとても興味深く、いろいろと考えさせられるものでした。
詳しく聞いていくうちに、おじいさんの波乱に富んだ人生が段々と分かってきて、さらに昭和から平成にかけての時代の流れにリンクしてしることに驚きました。
さらに偶然にも干潟の周りの変わりゆく景色が、おじいさんの人生と象徴的に結びつき、広がりを持った普遍的な物語が浮かび上がってきたのです。
円環する世界が見えてきて、大きな視点で映画が描けると確信しました。
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以上のような撮影を足かけ4年に渡って行いました。
もちろん、これはベーシックな撮影であり、時にはカニだけを撮りに行ったり、あるいは別の生き物を撮影することもありました。
先述の通り、多摩川河口の干潟には、意外に多くのカニが生息しています。
面白いことに彼らは狭い干潟の中で、種類ごとに住む場所を分けて暮らしています。
これについては、また明日書くことにします。
村上浩康(製作・監督)
奇跡の出会い(東京干潟編)
干潟でカニの撮影をしていた私は、偶然通りかかった吉田さんに声をかけられ、「蟹の惑星」の撮影がスタートしました。
では「東京干潟」の主人公、シジミ獲りのおじいさんとはどうやって知り会ったのでしょうか。
忘れもしません、吉田さんから初めて声をかけられた翌日のことです。
干潟に入るにはまず土手を降りて、そこから茂みを抜けていきますが、その中に数軒の小屋がありホームレスの人たちが住んでいます。
いつものように干潟に降りようとしたら、そのうちの一軒からおじいさんが出てきてこう言いました。
「あんた、環境省の人?」
一瞬何が何だかわかりませんでした。
まずホームレスの人に突然声をかけられたことに驚き、ちょっと怖そうな風貌に圧倒され(おじいさんなのに腕の筋肉がもの凄い!)、そしてそんな方の口からいきなり環境省というワードが出てきたのにも面喰いました。
聞けばおじいさんは、干潟でシジミを獲って生活をしており、最近他の人たちの乱獲がひどくてシジミが激減しているので、どうにかしてほしいとのことでした。
干潟にカメラを向けている私を環境調査にきた役人とカン違いしたのです。
潮干狩りをしている人たちをあちこちで見かけてはいましたが、あれはシジミを獲っているのかとその時わかりました。
そして言われてみれば、春に近づくに連れ、その人数も増えているような気もしました。
こちらの事情を話したうえで、改めておじいさんの話を聞くと、シジミに関する知識が豊富で、人柄も気さくで優しい方だと分かってきました。
さらに家の周りにたくさんの捨て猫がいて、おじいさんが一人で世話をしていることも知りました。
この人を撮りたい!私は咄嗟にそう思いました。
この人の生活を追いながら、自然と人間の結びつきを捉えてみたい、何よりこの人のことを知りたいと思いました。
そこで多摩川のシジミ乱獲問題とペット遺棄について取材するという名目でおじいさんに撮影を申し込み、交流が始まりました。
つまり、2本の映画とも偶然向こうからきっかけを作ってくれたのです。
干潟へ何のあてもなく、ただひたすら通い続けた結果、こんな出会いが待ち受けていたのです。
しかも2日連続でそんなことが起こった。
大げさに言えばこれは奇跡です。
自分はこの二人に選ばれたのだ、この映画を撮ることは運命なのだと、すっかり信じ込んでしまいました。
その夜は興奮して寝付けませんでした。
そしていよいよ本格的な映画の撮影がスタートするわけですが、これがとても独特な撮影となっていきます。
それについてはまた明日書くことにします。
村上浩康(製作・監督)
奇跡の出会い(蟹の惑星編)
干潟で映画を撮ろうと決めたのはいいのですが、具体的には何を題材にすればいいのか。
漠然とした思いで干潟に通い続けた私がまず撮影したのはカニでした。
その頃(2015年の冬ですが)、季節的にはあまり生き物が見られない時期で、干潟に現れるのは北国から飛来した渡り鳥やヤマトオサガニという冬眠をしないカニくらいでした。(カニも種類によっては冬眠するんです)
ヤマトオサガニをよく見てみると、長い眼をアンテナのように立て水面からジッと辺りを伺う様子が奇妙で、その目が横に倒れて甲羅にピタッと収めるしぐさなどをすることもあり、とてもユーモラスで興味を惹かれました。
そして彼らが干潟の泥をさかんにすくって口に運んでいる様子に驚かされました。
泥を食べてる…。
泥を食べる生き物なんているのか。
その時はカニに関する知識は皆無で(後になって泥の中に含まれる珪藻などの有機物を漉して食べていることを知りましたが)とにかく不思議で面白く、まずは彼らを撮っていくことにしました。
そして来る日も来る日もカニを撮影していると、ある時干潟に来た一人のおじいさんから声をかけられました。
「何をしているんですか?」
「カニを撮っているんです」
「ああ、ここはカニを撮影するにはいい場所ですよ」
「お詳しいんですね」
「私はここで10年以上、カニを観察していますから」
ビックリしました。
穏やかで知的な口調から、この人は大学の先生か研究者なのかと思いました。
「カニの研究をされているのですか?」
「いやあ、専門家ではありませんが、ただ好きで続けているだけです」
この言葉にさらに驚かされました。
研究者でもないのに、10年以上もカニの観察を続けているとは。
この人は何者なんだろう。
聞けば、この方は吉田唯義(だだよし)さんといって、定年退職後に何か始めたいと模索していたところ、多摩川のカニと出会い、70歳を過ぎたころから多摩川に通い始め、カニの観察と記録を続けてきたということでした。
まさかこんな人と巡り合えるとは。
私はすぐに取材の申し込みをしました。
その観察の様子をぜひ撮らせて下さい、また、カニに関するお話しもインタビューさせて下さいと。
そして後日、吉田さんのご自宅にお邪魔し、自宅の隣のアパートの一室(吉田さんはここを研究室にしています)で貴重な標本や資料を見せていただきました。
その中には、カニの巣穴を石膏でかたどった標本や、一年ごとに脱皮をするカニの抜け殻の標本などが膨大に保管されており(結構無造作に置かれていましたが)、人知れずこのような研究を続けている吉田さんに益々興味が湧いてきました。
そこで改めて今後の観察に同行し、一緒に干潟をフィールドワークしながら、カニたちの営みを撮影していくことをお願いしました。
この時吉田さんと交わした“フィールドワーク”という言葉が、結果として「蟹の惑星」のキーワードとなり、映画のスタイルそのものとなっていきます。
以上が「蟹の惑星」の始まりです。
そしてさらに運命の出会いはもうひとつ用意されていたのですが、それはまた明日書くことにします。
村上浩康(製作・監督)
どうして干潟で映画を撮ったの?
最近、映画の宣伝でいろいろな人にお会いすると「どうして干潟で映画を撮ろうと思ったのですか?」とよく聞かれます。
私がなぜ干潟に興味を持ったのか?
それは前作の上映で盛岡を訪れた時のことです。
朝、ホテルの部屋で何気なくつけていたテレビで、北海道の干潟に関するドキュメンタリー番組を見たのです。
その時、干潟という空間を初めて意識しました。そしてそこが意外に多くの生き物たちの生息地になっていることを知りました。
そもそも干潟とはどういう場所を指すのでしょうか。
地球の自転と月の引力などの影響で、潮位が変化するのはご存知だと思います。
潮位が最も高くなるのが満潮、最も低くなるのが干潮です。
この干潮の時(つまり潮が最も引いた時)に海に沿った浜辺や河口に現れる陸地が干潟です。
意識はしていなくても、潮干狩りなどで干潟を訪れた経験をお持ちの方も多いと思います。
干潮は約12時間ごとに繰り返され、干潟は1日に2回姿を現します。
(干潮の時刻は毎日少しづつずれていきます)
テレビを寝起きの朦朧とした頭で眺めていた私は
「へー干潟って面白いな」
と思い、東京にも干潟はあるのだろうかと、すぐにスマホで調べてみました。
そうすると、あったのです。
多摩川に。
そもそも東京湾をぐるりと囲む千葉と東京、神奈川の沿岸には、江戸時代までは広大な干潟が広がっていて、魚介類の漁やノリの養殖がさかんに行われるなど、私たち人間に大きな恵みをもたらす自然の宝庫でした。
しかし明治以降から昭和の高度成長期にかけて、埋め立てや港の整備、工業地帯の開発などによって干潟の90%以上が失われてしまいました。
現在東京湾に残る干潟は、千葉県の富津干潟や盤津干潟、三番瀬などが代表的なもので、都心では唯一、多摩川の河口に天然の干潟が残されているだけです。
(葛西臨海公園にも干潟がありますが、あれは人工的に作られたものです)
多摩川の河口に干潟があること知った私は、とりあえず旅先から帰ってすぐに、現地を訪れてみました。
バスと電車を乗り継ぎ、駅から徒歩で20分くらいかけて多摩川の川崎側の河口ぎりぎりのところまで行ってみました。
すると、そこには驚くべき光景が広がっていました。
川を挟んで向こう側、つまり東京側には羽田空港があり、飛行機がひっきりなしに飛び交っています。
一方、こちらの川崎側では京浜工業地帯の工場の煙突から黒煙や炎が立ち昇っていて、なんだかとても遠い場所に来たような印象を持ちました。
そして、干潮の時刻になると干潟がゆっくりと現れ、川幅の3分の1くらいが陸地になります。
そこを渡って対岸の羽田空港まで歩いて渡れそうなくらいです。
干潟が現れると地中からカニたちが一斉に姿を現します。
また、野鳥たちも休息地やえさを求めて飛来します。
それを写真に収めようと、アマチュアカメラマンやバードウォッチングの人々もやってきます。
そしてたくさんの潮干狩の人々も。
やがて数時間すると、満潮になり今まで広がっていた干潟は、すっかり水面下に隠れ、元どおりの大河の流れだけになります。
ここは東京の涯てだ…。
この場所こそ、自然と文明の境界だと感じました。
人知れず現れては消えるこの空間は何だろう…。
ここへ通い続ければ、きっと映画が出来るに違いないと直感しました。
こうして私の干潟通いが始まりました。
映画にとって第一段階となる撮影対象者や具体的な題材も決めないまま、本能的に干潟に惹きつけられ、映画作りをスタートしたのです。
そしてそこで二人のおじいさんと運命的な出会いを果たすわけですが、それはまた明日書くことにします。
村上浩康(製作・監督)