どうして干潟で映画を撮ったの?
最近、映画の宣伝でいろいろな人にお会いすると「どうして干潟で映画を撮ろうと思ったのですか?」とよく聞かれます。
私がなぜ干潟に興味を持ったのか?
それは前作の上映で盛岡を訪れた時のことです。
朝、ホテルの部屋で何気なくつけていたテレビで、北海道の干潟に関するドキュメンタリー番組を見たのです。
その時、干潟という空間を初めて意識しました。そしてそこが意外に多くの生き物たちの生息地になっていることを知りました。
そもそも干潟とはどういう場所を指すのでしょうか。
地球の自転と月の引力などの影響で、潮位が変化するのはご存知だと思います。
潮位が最も高くなるのが満潮、最も低くなるのが干潮です。
この干潮の時(つまり潮が最も引いた時)に海に沿った浜辺や河口に現れる陸地が干潟です。
意識はしていなくても、潮干狩りなどで干潟を訪れた経験をお持ちの方も多いと思います。
干潮は約12時間ごとに繰り返され、干潟は1日に2回姿を現します。
(干潮の時刻は毎日少しづつずれていきます)
テレビを寝起きの朦朧とした頭で眺めていた私は
「へー干潟って面白いな」
と思い、東京にも干潟はあるのだろうかと、すぐにスマホで調べてみました。
そうすると、あったのです。
多摩川に。
そもそも東京湾をぐるりと囲む千葉と東京、神奈川の沿岸には、江戸時代までは広大な干潟が広がっていて、魚介類の漁やノリの養殖がさかんに行われるなど、私たち人間に大きな恵みをもたらす自然の宝庫でした。
しかし明治以降から昭和の高度成長期にかけて、埋め立てや港の整備、工業地帯の開発などによって干潟の90%以上が失われてしまいました。
現在東京湾に残る干潟は、千葉県の富津干潟や盤津干潟、三番瀬などが代表的なもので、都心では唯一、多摩川の河口に天然の干潟が残されているだけです。
(葛西臨海公園にも干潟がありますが、あれは人工的に作られたものです)
多摩川の河口に干潟があること知った私は、とりあえず旅先から帰ってすぐに、現地を訪れてみました。
バスと電車を乗り継ぎ、駅から徒歩で20分くらいかけて多摩川の川崎側の河口ぎりぎりのところまで行ってみました。
すると、そこには驚くべき光景が広がっていました。
川を挟んで向こう側、つまり東京側には羽田空港があり、飛行機がひっきりなしに飛び交っています。
一方、こちらの川崎側では京浜工業地帯の工場の煙突から黒煙や炎が立ち昇っていて、なんだかとても遠い場所に来たような印象を持ちました。
そして、干潮の時刻になると干潟がゆっくりと現れ、川幅の3分の1くらいが陸地になります。
そこを渡って対岸の羽田空港まで歩いて渡れそうなくらいです。
干潟が現れると地中からカニたちが一斉に姿を現します。
また、野鳥たちも休息地やえさを求めて飛来します。
それを写真に収めようと、アマチュアカメラマンやバードウォッチングの人々もやってきます。
そしてたくさんの潮干狩の人々も。
やがて数時間すると、満潮になり今まで広がっていた干潟は、すっかり水面下に隠れ、元どおりの大河の流れだけになります。
ここは東京の涯てだ…。
この場所こそ、自然と文明の境界だと感じました。
人知れず現れては消えるこの空間は何だろう…。
ここへ通い続ければ、きっと映画が出来るに違いないと直感しました。
こうして私の干潟通いが始まりました。
映画にとって第一段階となる撮影対象者や具体的な題材も決めないまま、本能的に干潟に惹きつけられ、映画作りをスタートしたのです。
そしてそこで二人のおじいさんと運命的な出会いを果たすわけですが、それはまた明日書くことにします。
村上浩康(製作・監督)