ひとりでしか撮れない映画
映画というものは、多くの人の力を結集して作られるものです。
プロデューサー、監督、撮影、照明、録音、美術、衣装、ヘアメイク、小道具、大道具、特機、車両、制作、記録、俳優…その他多くのスタッフにより映画作りは支えられています。
ドキュメンタリー映画も劇映画ほどではありませんが、何人ものスタッフで撮影されるのが基本です。
しかしその一方で、ひとりでしか撮れない映画も存在します。
「東京干潟」はまさにそのような作品でした。
「東京干潟」は多摩川の河口でシジミを獲りながら捨て猫たちと暮らすおじいさんを描いた作品で、撮影期間は4年に及びました。
この間、私は一人でカメラを持っておじいさんの所に通い続けました。
これには、長期間にわたる取材のうえに、個人製作の自主映画なので、予算的に他の人を雇えないという理由が前提としてあります。
しかしまた一方で、おじいさんとの人間関係を築くなかで、個人的な付き合いを深めていくには、どうしても一人で向き合うことが必要だと感じたからでもあります。
現存する人を取材対象としたドキュメンタリ―映画では、その人とどういう人間関係を築くかに全てがかかっています。
それは取材する側の人間と、される側の人間の1対1の関係です。
「東京干潟」の場合、おじいさんの所へ、もし他のスタッフを連れて撮影に行くとなると、人数的にも精神的にも、無意識におじいさんを圧迫することになり、関係のバランスが崩れてしまいます。
私はどうしても、おじいさんと1対1で向き合いたかった。そうでなければおじいさんは心を開いてくれないだろうと思いました。
さらにこうしてバランスを保ったとしても、関係性を深めていくには当然のことながら時間がかかります。
この映画では、最初はおじいさんのパーソナルな話はほとんど聞かずに、多摩川の環境やシジミの乱獲、捨て猫の問題などについて少しずつインタビューをしていきました。
そして撮影後に、差し入れたお酒を飲みながら世間話をするうちに、徐々におじいさんが自分のこれまでの人生について断片的にお話ししてくれるようになり、そこから、個人的な部分に踏み込んでインタビューをしていきました。
つまり、おじいさんが自分から話してくれるまで、じっとタイミングを待ち続けたのです。
そうやって長い時間をかけたからこそ、おじいさんは自分の波乱の生涯を話してくれたと思います。
取材優先というスタンスではなく、あくまでもコミュニケーションの延長線上に撮影があったのです。
ですから「東京干潟」では、おじいさんと話す私の声も意識的に活かしています。
おじいさんとの会話をあえて提示し、作品に取り込んでいるのです。
これは私の前作「無名碑 MONUMENT」(この映画は全編を様々な人のインタビューで構成しています)で極力、私の声を省いたのとは全く逆の方法論です。
「無名碑 MONUMENT」は、いわば一期一会の通りすがりの人に話を聞くというスタイルだったので、相手の存在感を短い時間の中でいかに際立たせるかがカギでした。だから私の反応や合いの手は出来るだけ省きました。
逆に「東京干潟」は、おじいさんと私が関係を築いていく過程をドキュメンタリ―として描こうとしたのです。
そのコミュニケーションの過程が「東京干潟」には内包されています。
ただ、私が気を付けていることがひとつだけあります。
それは相手の気持ちを決して代弁しないことです。
いくら相手の気持ちに寄り添っても、いくら真剣に推し量っても、所詮本当の胸の内はわからないのです。
私はおじいさんの本当の気持ちはわからない。 だから、「それはこういうことですね」とか、「こう思ったのですね」とか、相手の心の中を勝手に解釈するような言葉は発しないようにしました。
おじいさんの内面は私が代弁するまでもなく、おじいさんの言葉や表情の端々に、また彼をとりまく環境や行動、生活の中からも自然に滲み出てきます。
それを見る人に感じてほしい、そういう考えのもと、安易な私的解釈、つまり代弁は決してしないように心掛けました。
相手の内側に干渉せず、外面から観照する、これが私のドキュメンタリ―映画作りの基本です。
村上浩康(製作・監督)