ビデオサロン「ドキュメンタリー映画監督に訊く」で掲載されました!
月刊誌ビデオサロンがウェブ上で連載しているシリーズ「ドキュメンタリー映画監督に訊く」で私のインタビュー記事が公開されました。
長時間にわたって取材をしていただき、とりとめもなく勝手にしゃべり続けた私の話をこのように素晴らしくまとめていただき、とても嬉しく光栄です。
この記事を読んで、私自身が私の映画作りを客観的に知ることができました。
「東京干潟」「蟹の惑星」の製作裏話も満載で、この記事を読み、映画を見ていただけたらより作品が楽しめると思います。
記事を書いてくださった編集者さんに改めて感謝いたします。
ありがとうございました。
村上浩康(製作・監督)
上映時間&上映期間中の催しのご案内
いよいよ「東京干潟」「蟹の惑星」公開まで、あと2週間となりました。
ポレポレ東中野での上映期間と上映時間が確定しましたので、お知らせいたします。
変則的で少しややこしいのですが以下の通りです。
上映は7月13日(土)から8月2日(金)の3週間になります。
第1週目
7月13日(土)~19日(金)
12:30~「東京干潟」
14:30~「蟹の惑星」
第2週目以降(各作品を1本づつ日替わり上映になります。時間も変わります)
7月20(土)、7月22日(月)、7月23日(火)、7月25日(木)、7月26日(金)、7月27日(土)、7月29日(月)、7月30日(火)、8月1日(木)、8月2日(金)
10:30~「東京干潟」
7月21日(日)、7月24日(水)、7月28日(日)、7月31日(水)
10:30~蟹の惑星
(つまり、二週目以降は「蟹の惑星」は日曜日と水曜日の上映のみ、その他の日は「東京干潟」が上映されます。)
また、上映期間中には、映画館で様々な催しを行います。
(その1)シジミ汁を振舞います!
上映初日の7月13日(土)~15日(月)の3連休に「東京干潟」のおじいさんが、多摩川で獲った貴重な特大シジミのお味噌汁を無料でお客様に振舞います。
ひと口ほどの量ではありますが、よろしければ映画に登場するシジミ汁を味わってみてください。ひと味違う美味しさだと思います。
「東京干潟」の上映後にポレポレ東中野1階のカフェ・ポレポレ坐のテラスにてお配りします。
(これは「東京干潟」をご覧になったお客様が対象になります。また量に限りがございますので、品切れになる場合もありますことをご了承ください)
(その2)カニを展示します!
多摩川河口に住む生きたカニたちをポレポレ東中野のロビーに展示します。
「蟹の惑星」の主人公・吉田さんの監修のもと、水槽にカニたちを飼育しながらお客様に見ていただきます。
また、カニの巣作りが一目で分かる展示物や、カニの脱皮殻の標本も展示します。
映画館に小さなカニ博物館が出現します。
(その3)多摩ねこ写真展を開きます!
多摩川で30年間、毎日猫たちの救護・保護活動を続けている小西修さんのミニ写真展を開きます。
小西さんは猫の保護を続けるかたわら、人間に捨てられ、果ては虐待を受けた猫たちの写真を撮り、多摩川の捨て猫の実態を人々に訴えています。
上映期間中、小西さんが撮影した多摩ねこたちの写真をロビーに展示していただきます。
(その4)舞台挨拶&トークゲストあり!
上映期間中は毎日、村上浩康監督が舞台挨拶をさせていただきます。
(「東京干潟」「蟹の惑星」それぞれ上映後に行います)
また、以下の日程で映画の出演者や協力者のトークショーを開催します。
7月13日(土) 吉田唯義さん「蟹の惑星」出演者:「蟹の惑星」上映後
7月14日(日) 小西修さん(多摩ねこ写真展):「東京干潟」上映後
7月20日(土) シジミのおじいさん「東京干潟」出演者:「東京干潟」上映後
このように上映期間中に様々な催しがありますので、どうぞ皆さんお楽しみに!
村上浩康(製作・監督)
なぜ水辺とおじいさんなの?②(自分を使い尽くす)
水辺を舞台におじいさんばかり撮っていることについて、昨日は“水辺のわけ”を書きました。
それは水辺が生命活動の場であるということでした。
では、おじいさんについてはどうなのか。
おじいさんとは、つまり老人ですので、彼らは生命活動の終盤に向き合っています。
水辺が象徴する生に対して、死を予感させる存在です。
水辺を舞台におじいさんを撮ることは、生と死を同時に捉えていくことになるのです。
昨日も書きましたが、違う要素を対比しながら描くことが私の映画作りなので、そのことが端的に見えることから、水辺とおじいさん になるのだと思います。
しかし、ここでもう一つの疑問が湧いてきます。
老人を描くなら、おばあさんでもいいのでは?
その通り、おばあさんでもいいのです。
しかし私の場合、おばあさんとの幸運な出会いが無かったのです。
岩手県盛岡市の池を舞台に撮った「無名碑 MONUMENT」(2016年)では、お花見で池に集まってきた多くの老若男女に無作為にインタビューを敢行しました。
その中にはもちろんおばあさんもいました。
おばあさんに話しかけると、初めはオープンにいろいろと喋っていただけるのですが、それを撮ろうとカメラを向けるや、皆さん逃げるように去っていきました。
「撮られるのはいや!」
その気持ちは分かります。
突然、見ず知らずの男が自分にカメラを向けてきたら、たいがいの人は抵抗があると思います。
特に女性は警戒するでしょう。
また、仮に撮られるならもっといいコンディションで撮ってほしいという気持ちもあるでしょう。
とにかく、いま突然撮ることは難しかったのです。
(私の場合「いま撮らせて下さい」という手法で製作しているので難しいのです)
反対にカメラに対して一番抵抗が少なかったのが、おじいさんでした。
おじいさんたちは、あまりカメラを気にしませんでした。
撮るなら勝手に撮ればいい、という感じの人が多かったのです。
おじいさんたちにカメラを向けると、ある人は朗々と、またある人は訥々と、大概の人が長い時間をかけてお話をしてくれました。
これはどうしてなのか?
もしかしたら、おじいさんは話したがっているのかもしれない。
そんな気がしました。
多くのおじいさんが、自分の中に話したいことを持っている。でも、普段はなかなかそれを話す機会が無い。
あらたまって話すことではないと思っているのかもしれないし、聞いてくれる人が周りにいないのかもしれない。
また、特に今のおじいさんの世代は、男のおしゃべりは美徳ではないと教えられてきたのかもしれません。
理由は様々にあるのでしょうが、とにかくおじいさんは話してくれるというのが、私の長年に渡る撮影の中の印象です。
言い方は悪いのですが、私はそこにつけこんで撮影をしているのです。
こうして私が撮影してきたおじいさんたちには、ある共通点があります。
それは、“自分を使い尽くしている”ということです。
映画に撮らせていただいたおじいさんたちは、それぞれ境遇や取り組んでいることは違っていても、皆さん真剣に何かに没頭しています。
そしてそれに対して終点を決めていません。
「東京干潟」のおじいさんは、猫と自分の暮らしのために毎日川に入りシジミを獲っています。
「蟹の惑星」の吉田さんは、定年退職後に突如としてカニの研究に目覚め、15年間に渡って多摩川に通い続け独自の調査と記録を行っています。
それぞれ、生活の為、趣味の為と目的や動機、また老年の境遇も違いますが、私はこのお二人に共通するものをずっと感じていました。
お二人とも、老後や余生という意識を持たず、今取り組むべきことに一心に向かっているのです。
生きて居る限り、自分というものを使い尽くそうとしているのです。
体も心も頭脳も気力も、自分の中にあるすべてを使い切ろうとしているのです。
(これは野生の中で見たカニをはじめとする生き物にも共通することでした。彼らも生ある限り、その炎を燃やし続けているのです)
この姿に私は励まされてきました。
撮影中、先が見えず心が折れそうになった時も、50歳を越え体のあちこちにガタが来て元気の無くなった時も、お二人の姿を見ると、いやいやまだ俺は自分を全然使い切っていないじゃないか、もっともっと出来ることがあるはずだ、とその度に鼓舞されました。
無論、これはお二人が健康で元気だからこそ出来ることです。
しかし、逆に言えばこうして日々取り組むべきことを続けているからこそ元気なのだとも云えるのではないでしょうか。
さらに、これはテレビで見たことですが、川のそばにいる人は寿命が長い傾向があるらしいです。
それは川のせせらぎの音が関係しているとのことです。
だから尚更、お二人ともお元気なのでしょう。
自分を使い尽くすお二人の姿を、ぜひスクリーンでご覧ください。
村上浩康(製作・監督)
なぜ水辺とおじいさんなの?①(人間以外の世界を見る)
私のこれまでのドキュメンタリ―映画は、なぜか水辺を舞台に、おじいさんを主役にした作品ばかりです。
「流ながれ」(2012年)では、カワラノギクという絶滅しかかっている植物をたった一人で河原に復活させようとしている吉江啓蔵さんと、地元の川で環境調査のために水生昆虫を40年前から調べている齋藤知一さんの活動を追いました。
「無名碑 MONUMENT」(2016年)は、盛岡の花見の名所である池に集まる様々な人の証言を綴った作品ですが、この中で強烈な印象を残すのは、池の畔に立つ隕石博物館の老学者と、毎日夜明けと共に池にやってきては自作の歌を唄いながら体操をする元シベリア抑留者の91歳のおじいさんです。
今回の「東京干潟」は、干潟でシジミを獲りながら捨て猫たちと暮らすホームレスのおじいさんが主役です。
また「蟹の惑星」も、干潟で15年に渡ってカニの研究を続けるおじいさんの視点から生き物や環境を見つめていく作品です。
みんな水辺とおじいさんが題材になっています。
なにも意識してこうなったわけではありません。
気がついたら、過去の作品が共通のモチーフになっていたのです。
自分でもどうして?と不思議です。
その理由はなんなのか…。
まず映画の舞台となる水辺についてですが、私は特に水回りが好きというわけではありません。
川や海のそばで育ったわけでもなく、子供の頃から水辺で遊んだこともほとんどなく、釣りさえしたことはありません。
なのになぜ映画を撮ろうとすると水辺を選ぶのか。
自分なりに考えると、それは水辺が生命活動が盛んな場所だからだと思います。
そもそも生命は水から誕生しました。
水辺には多くの生き物が生息し、また集まってきます。
さらに人間の文明も水辺から発展しました。
水辺は人間社会の基盤であり、自然との境界でもあります。
そのような場所を舞台にすると、人間を含めたあらゆる生命の営みが見えやすくなってくるのです。
私は映画を作る時、人間だけを描くことはしません。
言うまでもなく映画は人間が人間を描き、人間に見せるために作られるものです。
しかし映画が内包するもの(つまり映画に映っているもの)は、人間だけではなく、その背景にある環境や空間、時間、物質など様々なものを同時に捉えています。
私は映画を描く時に、それら人間以外の要素も取り入れることにしています。
なぜなら、人間の世界だけを見ていたのでは行き詰ってしまい、様々な問題を捉えるには限界があると思うからです。
人間社会の問題を人間だけの視点から捉えようとすると、狭い視野になりがちです。
人間はこの世界のほんの一部を担っているに過ぎないのですから。
だから私は人間以外の世界も同時に捉え、そこと対比させて映画を作ろうと思っています。
その時に、一番分かりやすく、かつ映画向きなのが生き物です。
生き物のビジュアル、動き、生態などは極めて“エイガ映え”するのです。
そしてそれをカメラに収めるには、生き物が集まる水辺が最適となってくるー。
そういうわけで水辺が舞台になったのではないかと思います。
まあ、これは今振り返ってのことで、多分に後付けの感もありますが。
さて、舞台が水辺ということはこれでひとまず理由付けができましたが、もうひとつの要素である“おじいさん”についてはどのようなわけがあるのでしょうか。
これについては、また明日考えてみます。
村上浩康(製作・監督)